催眠都市 短編小説 『負け犬(Loser Doggy−Dog)』 それは人間界だった。14世紀オーストリア、カリンジア山脈山中。 生まれたての仔狼が、月明かりが照らす中、目もまだ開かぬまま、羊水をかぶったままちぢこまってふるえていた。母親の姿はない。ひょっとすると、後で述べるように、妖精王自らがそこに置いていったのかも知れない。 そこへ、森の道を向こうから歩いている一つの人影がある。男は安物のワインを呑みひどく酔っ払った様子で、黒味のかかった髭をもじゃもじゃに乱した顔で、踊るような足つきで近寄ってきた。 「ウイー!ったく監察官の仕事もやってらんねーなー!このまんま行きゃオレの次のお勤め先ゃ、スイスだとさ!!あいっつら事あるごとに盾つきゃがるからやってらんねぇぜ、全く!」 男は、仔狼の姿を、充血した目の端で捉える。 「お?狼じゃねーか。今っちに育てときゃ、まっオレを襲うなんてこたーなくなるだろうよ!俺っちは理想的な森の番人だ!ぎゃっはっは!おっと目も開いてねーじゃねーか、ひでー母ちゃん持ったなぁ、最近あんまり食い物ねーだろうから、スイス人どもみたく子供捨てちまうのかい!」 と口では悪く言いながらも、細かく「キュル…キュル…」程度しか口に出せない小さな塊を持って、男は慎重に家に入っていく。 男は一人所帯だった。狼は、粗末な、ナイフや昨日のつまみの食べさしの残った木のテーブルの上に置かれる。 (ボクを…どうするの…) 男は、まだ酔いの全く覚めぬまま、蝋燭の光の下で狼に顔を近づける。 「よぉちびすけ、オレはゲスラーってんだ、よろしくな。」 生まれたての狼に言葉の分かる訳もない。しかし、獣には獣特有の知能があり、彼のそれは生れ落ちたその時から秀でたものがあった。 (ゲスラー…さん?) 男は野卑な、甲に毛の密生した手の中に狼を包みそしてその酒臭い髭の前まで抱き上げる。 「テメーはずいぶん赤い毛してやがんな…よし!テメーの名前は、あの銅なべより赤い、『銅金(あかがね)』だ!」 (ボクの名前は…銅金?) 「よーし気に入った!銅金!かぁちゃんのミルクとはいかねぇが、まぁ冷てぇこーきゅーワインでも呑めや。」 男は、粗雑な木の皿に、すえた臭いを放つ白ワインを注ぎ、銅金の頭をおさえつけて飲まそうとする。 (おいしくないよ…) 舌を出そうともせずいやがる銅金を見て、男は別な事を思いつく。 「人肌にあっためにゃあ駄目みてぇだな…そうだ、臭ぇチーズが戸棚に入ってた。犬っころでも親なしのガキにはこうするんだよな…」 男は食物を口にふくみ、良く噛み砕いて、唾液と混ぜ合わせ、いきなり狼の小さな頭を髭だらけの彼自身の口の中におしこんだ。 どう考えても有り難くない乳児食だったが、野生の狼には、それが暖かい、この世で最初の正餐だった。 (ぺろぺろ…おいしいよ…) 「うぉっと…へっへっへ、食欲旺盛じゃねぇか、ったく犬と変わりねーな、ハハハ、おっと歯は立てるなよ、つっても歯まだ生えてねーか、ハハハ」 独身者(ひとりもの)、それも殆ど敵しかいない監察官という職にある男と、銅金が無二の親友になるまで、大した時間は掛からなかった。自分が狼であるという自覚も余り持たない銅金は、しばしば二足歩行しようとして男を失笑させた。 (ボクね、ボクね、人間なの!) 「はっはっは、こいつぁ傑作だ!骨付き肉でも持っていきやがれ!」 一度、男は、銅金を、スイスまで連れていった事がある。ゲスラーは、帽子を被った、何か石弓のような物を持った男としばらく口論した跡、その男の息子を木にしばりつけ、さらにその上に林檎を載せていた。 (ゲスラーさん、どうしたの?ボクが悪いことしたの?) 息子の林檎に、小さな矢(クォーレル)が命中した後も、ゲスラーはまだ石弓使いの男と口論した挙句、石弓を持たせたままどこかへ連れていこうとした。 (どうしたの?ボクと相談してよ!) ゲスラーは、人前ではとりがちな、銅金を全く無視する態度をとっていた。ゲスラーが銅金に言いたいことは分かっても、ゲスラーが他の人間に言うことはさっぱりだった事が彼を苛立たせた。 やがて冬が過ぎ、男との楽しい日々が過ぎた。銅金はもう立派な若狼になっていた。 スイスの山の中で、銅金が見た最後のゲスラーの姿は、林檎ではなく、その胸に矢を突きたてられ、地面に突っ伏した姿だった。 その矢を放ったのは、前回見た帽子の男と同じだった。 銅金にも、その場に居合わせた大勢の人間たちが、ゲスラーの死を悼むどころか喝采している事はわかった。 犬であれば、そのまま主人の敵に襲いかかり、同じく石弓の餌食になっていたことだろう。しかし、銅金は、頭が良すぎた。 (ひ…ひどいよ…) かつて林檎を頭に載せられた息子は、帽子の男に問いかける 「お父さん、狼がこちらを見てますよ、射ちましょう。」 しかしゲスラーを殺した男(ウィリアム=テルと言った)は、考えた挙句こう答えて提案を拒否した。 「木を伐られた森は、雪崩によって復讐する。あまり自然を甘く見ないことだ。」 しばらく、ゲスラーとの思い出に詰まった小屋で自らの死を夢見ていた銅金は、やがて、獣である自分に正対した。 (ボクは…生き延びて人間になって見せる!) その爪や、鋭い牙が、他の動物に対する圧倒的な武器となる事を知った銅金は、野山を駆け巡り、スイス人羊飼いの羊を襲って食べることを覚えた。それと同時に、彼は、思いが通じたのか、自分の体が変化していく事にも気付いた。上半身からは赤い体毛が一切抜け落ち、顔は、耳以外全て若い人間の男のそれとなり、そして、全体(もはや狼の「全長」ではなく、頭頂部から足の裏までの長さだった)は237センチという巨体に成長していたのだ。やがて、彼は、子供のころからの夢である二足歩行も会得し、四足より好むようになっていた。 そういった彼のささやかなレジスタンス(?)活動も一段落したある日のこと。 一匹の、痩せた青い狼がこちらを見て、うなっている。 グールルル(へっへっへっ、『狼人(ウルフウェア)』の旦那。おいらは、青狼。旦那の噂は聞いていますぜ。) 銅金は、自らより知能程度を劣る者を軽蔑する動物特有の態度で、長い髪の毛様の毛の生えた頭を傾かせ、無視しようとする。 青狼(まっ一匹狼を気取るのも良いんでやすがね、最近、人間の癖に狼になっちまう奴等が増えてんでさぁ!人間ってぇのはオツムがアレだから、関係もねぇあっしらを狩り立ててやがる!このまんまじゃ、旦那も一緒くたにされて剣呑ですぜ。) ぴくり、と獣のあかしである、銅金の耳が動く。 グルルル(それは…詳しい話が聞きたいな) と吠え声で返答する。狼と言えども、そこには、青狼とは比較にならない優雅さがあった。 青狼に連れられ、森の奥深き一角に案内された銅金は、普段は弱肉強食の掟に従い食みあっている森の動物たちが神妙な様子で集まっているのを見る。 銅金「グールル(これは…どういうことだ?)」 青狼「ま、『よこのつながり』って奴でやんすよ。こりゃーあっしらも、獣なら何でも駄目だってんで、撃ち殺されたらたまんねーってんで、旦那に、『人狼ハンター』になって欲しいって思ったんでさぁ!」 銅金「ウガ?(人狼ハンター?)」 青狼「ま、旦那が人間の振りして、人狼どもをとっちめるって寸法でさぁ。人間どもってのは本当に昼行灯で、臭いや仕草じゃ人狼(ウェアウルフ)の見分けつかないってんで、まぁ『ことば』ちゅうーもんに頼り過ぎって事やんでしょ。 とーりあえず、旦那はどのくらい人間どもに詳しいんすか?」 銅金は、人間の体になるのが精一杯で、ゲスラー以外の人間の生活など知りもしなかった。 青狼「ならあっしらがちょっと手ほどきさせて頂くでやす。こっちに居るんが、『白狐』。別嬪でやしょ?」 白狐は、無言でうなずいた。ように、銅金の知性には見えた。」 青狼「まず、旦那のサイズの『ふく』を手に入れるのがやっかいッスね…」 獣たちの期待をうけ、中世ヨーロッパの世界に侵入しようとした銅金。まず、言葉を喋れないことをどう誤魔化すかが課題となった。他人と他人が話している時の心の揺れ動きを探るのは簡単に会得出来たが、書き言葉を覚えるのは銅金の、人間以上の知能を以ってしてもある程度以上にはなれなかった。まぁ当時は人間でも書き言葉を理解できる者は少なかったのだが。 とりあえず、狼の勘を持ってすれば、「人狼」たちの所在を突き止めるのは簡単なことだった。巨体に、耳を隠す為帽子を目深に被ったその姿は、忌まわしき伝染病患者「人狼」たちのの恐怖の的となった。 満月の夜。 「へっへっへっ、子供、特に女の子は美味いなぁ。これで狼どもに責任をなすりつけれて、人狼はやめられねーぜ!」 おっと、アンタも同類かい?一緒に仲間を増やそうぜ」 銅金「ウガ…(貴様…)!!」 「ぎゃあああああ!」 それが、ゲスラーの敵を討つことにつながるのかという事や、ましてや青狼たちに義理を果たすことにどういう意味があるのかは疑問だった。 しかし、そういった行為を繰り返す内に、バレる日はやはりやって来た。 気付いた時、銅金は、不眠者の会堂の存在する外宇宙とも覚つかぬ、暗いとも明るいとも言えない空間にいた。 銅金は、突然、何か、今までずっと夢を見ていたような感覚を覚えた。色夢(という名前すら実は覚えていなかったが)をどう護ろうという考えすらもう既になかった。 そこは、無数の光の群集まりであり、獣そして非人間を問わず光の塊として、そして銅金自身もどうやらその一つとして、旅を続けているような場であった。 (ふむ…どちらへ行ったら良いのだろう…獣は右、人間は左のようだ。) どちらに行くまいかと少しの間考えていた銅金は、やがて左の方角へ向かう光の群れの中に、昔、遠い昔、覚えていた臭い、覚えていたあのちょっとした動き、覚えていたあの「考えの元」を感じ取る。 その瞬間、時間が、銅金の中で、逆流した。もう、獣王と呼ばれていた時のこと、人狼ハンターであった時のこと、そして妖精国での永遠とも言える時間は、銅金の中から消え去っており、銅金は、「あの男」の手の中で嬉しそうに口移しでエサを貰う小さな赤茶毛の目も開かない狼に戻っていた。 「ゲスラーさん!ゲスラーさん!ボクだよ!ボクだよ!ボクねぇ、色んな事経験したんだよ!ボク、狼の王様になって、人間にちょっとだけなれたの!それからね、すっごく綺麗なおんなのひとに会ったんだよ!」 銅金が目指している光の元は、少しいぶかしむような様子で、銅金の方に関心を向ける。 (ゲスラー…記憶にない。だが、お前の波動は感じる。) 「ゲスラーさん!ゲスラーさんだよね!…は?!これが『喋る』ってこと?うわーい!おもしろーい!」 (そうか…銅金か…あそこで何だか訳がわからなくなって、私がここで暮らすようになってから、大分長い事経つような気がする。だけど、お前の事は覚えてる。喋らなくてもいいぞ、銅金。お前の事は、考えなくたって分かる。お前の気持ち、お前の心の揺れ動き、私には分かる) 「うわーい!うわーい!もう、ずっといっしょなんだね!」 ゲスラーと呼ばれた魂と、狼人。二人の旅は、それから永遠に続き、次の日はその前の日のさらに素晴らしい、終わり無き毎日の繰り返しだった。 −終−